建学の精神
『自主独立』
建学の目的
『学・技両全にして人格高尚なる歯科医師の養成』
精魂の河(創立100周年記念誌)
近年,大学は7年毎に認証評価をうけて,その結果を公表することを義務づけられた。その評価の核となるのが,建学の精神である。そのため,それまで影の薄かった建学の精神が,にわかに脚光を浴びることとなった。これから開校する大学は,建学の精神を錦の御旗のように高々と掲げる。けれども,私どものように100周年を越える大学は,今さら建学の精神といわれても白けてしまう。
明治39年(1906)に歯科医師法(旧制)が制定され,あわせて公立私立歯科医学校指定規則が出された。その年,東京市には,検定試験をうけて正規の資格を得た歯科医師は,僅か187名しかいなかった。開業医として盛名を馳せていた中原市五郎先生は,公立(国立)の歯科医学校を設置するよう再三,国に働きかけた。しかし,歯科は富国強兵に関わりなしと,一顧だにされなかった。国は,歯科医療を軽視したのである。
折角,指定規則ができても,それに基づく歯科医学校は1校も生まれない。歯科志望者は従前と変わらず,開業医の徒弟としてまた私塾において,細々と勉学をする他なかった。この状況を憂い憤った中原先生は,私財を投じて,翌40年6月,麹町区大手町1丁目1番地に私立共立歯科医学校を開校した。
同校の設立趣意書には,「我等同志の者相図り,昼間開業医の助手をして余暇なき者を集め,これに歯科医学を授け,一には教育機関の不備を補い,一には師たる開業医の責任を軽減せしめんと欲す。是今回歯科医学校の設立を企図したる所以なり。…一は学技両全の歯科医を社会に紹介し,一は以て歯科医の人格を高尚ならしめんことを」と説いた。ここに謳った「学・技両全にして人格高尚なる歯科医師の養成」が,学校の目的であった。
当時,私立歯科医学校の経営は困難を窮めた。開校から4ヵ月後の10月には,校舎を神田区雉子町34番地に移転した。さらに中原先生は,麹町区富士見町6丁目2番地(現在地)の旧法政大学分校を個人で買収し,42年6月に同地に移転させ,校名を日本歯科医学校に改称した。当初は2年制であったので,同年7月に昼間部36名,夜間部27名,特別卒業5名の計68名の卒業生を社会に送りだした。まさに,当時の歯科界にとって干天の慈雨であった。
その後,大正8年(1919)財団法人日本歯科医学専門学校に組織変更するに際し,中原先生は学校に貸与していた私有地と,新たに買収した隣地の計1,030坪を財団に寄付した。さらに,昭和7年(1932)附属医院の新築に際し,中原先生は,将来を見越して買収してきた隣接地370坪を財団に寄付した。現本館キャンパスは1,963坪あるが,その約4分の3(1,400坪)は創立者の無私の寄付によるものである。
このように創立者は,独力で学校を興し,誰の力も借りず他を頼らず,私学としての自主独立を堅守した。ことさら自賛することはなかったが,彼は生涯,筋金入りの私学人の姿勢を貫いた。
その精神は脈々と受け継がれ,自助努力という信念と勇気により,本学は,自らの判断と責任において大学運営の舵取りを続けてきた。この100年間,一貫して継承された自主独立こそ,日本歯科大学の建学の精神なのである。
学校法人日本歯科大学理事長
日本歯科大学学長
中原 泉
日本歯科大学創立100周年記念誌『精魂の河』より