本学の特色

FEATURES

わが国“唯一”“最初”“最大”“最多”の数々

学校法人として「歯科界の源流」

  • 世界最大の歯科大学

    大学院2、歯学部2、病院2、短期大学2など

  • 世界最多の歯科大学卒業生数

    総数2万2千余名、現在1万2千余名

  • 生命歯学の学部名

    わが国唯一の生命を冠する歯学部

  • 2つの歯学部を有する唯一の単科大学

    生命歯学部と新潟生命歯学部…①

  • わが国歯科大学唯一の三桁の卒業回数

    現在第112回卒…②

  • 明治39年の旧歯科医師法制定に伴う

    わが国最初の歯科医学校…③

  • 東京都の中心(東京のへそ)に位置する地の利

    東京メトロの東西線と南北線の交わる飯田橋

  • ①日本歯科大学生命歯学部
  • ①日本歯科大学新潟生命歯学部
  • ②第111回卒業式(生命歯学部)
  • ③日本歯科大学発祥の地の碑(千代田区大手町1-1)
  • 歯科大学初の限定キティ「日本歯科大学キティ」

大学として「フロントランナー」

  • 本学教員評価法の確立

    客観的数値により毎年教員活動を総合評価

  • 「Odontology」の刊行

    わが国唯一の国際総合歯科学術誌・年4回発行…④

  • 「日本歯科大学新聞」の刊行

    昭和23年創刊のわが国最古級の大学新聞、現在第680号…⑤

  • 姉妹校のグローバル提携

    わが国歯科大学最多の15ヵ国18大学と口腔保健のための国際姉妹校連合(IUSOH)

  • ブリティッシュ・コロンビア大学(カナダ)、 ワシントン大学(米国)との

    「交換学生」36年間

    ほか4ヵ国4校と交換学生・訪問学生…⑥

  • 大学ワークショップの開催

    わが国歯科大学最多の現在第169回

  • 「常用歯科辞典」の刊行

    わが国唯一の総合歯科医学辞典

  • ④Odontology
  • ⑤日本歯科大学新聞
  • ⑥ブリティッシュ・コロンビア大学と交換学生
  • ⑥姉妹校の中山医学大学(台湾)との交換学生

競走部(陸上部)創部117年

箱根駅伝に17回出場、難波博夫(第24回卒)区間新記録

  • 正月恒例の箱根駅伝。実は日本歯科大学も、かつて出場常連校であった。 日本歯科医学専門学校時代の1922年の第3回大会から、1940年の第21回大会まで計17回出場し、1926年の第7回大会では最高の3位に入った。また、1935年卒の難波博夫は、1933年の第14回大会では4区で、翌年の第15回、さらに第16回では3区で、連続して区間新記録をだした。

学部として「独創」「先見」「実行」

  • 医の博物館

    わが国唯一の公認医学博物館(新潟)…⑦

  • 新潟病院

    歯科病院と医科病院を統合した医歯連携病院(新潟)

  • 附属病院の日本医療評価機構の認定

    私立歯科大学初の認定病院(東京)…⑧

  • 訪問歯科口腔ケア科

    わが国唯一の訪問歯科診療科
    わが国最初の在宅歯科往診ケアチーム(新潟)…⑨

  • 口腔リハビリテーション多摩クリニック

    わが国唯一の口腔リハビリテーション専門医院(東京)…⑩

  • 附属病院の遠隔画像診断システムの設置

    わが国唯一のインターネットによる口腔診断(東京)

  • 歯科大学唯一のCPF(細胞培養加工施設)の設置(東京)

  • 学生実習用患者ロボット「シムロイド」の開発(東京)…⑪

  • 歯の幹細胞による再生医学・医療の研究(東京)…⑫

  • 歯髄幹細胞による肝・膵臓治療の研究(東京)

  • 歯の細胞バンクの設立

    わが国歯科大学唯一の再生医療のためのバンク(東京)…⑬

  • 私立大学最初の「特定認定再生医療等委員会」の設置(東京)

  • 在宅ケア新潟クリニックの開設

    わが国歯科大学最初の訪問歯科専門の診療所(新潟)

  • N-カフェ・アングルの開所

    わが国歯科大学初の認知症患者支援のカフェ(新潟)

  • ⑦医の博物館
  • ⑧日本歯科大学附属病院
  • ⑨新潟病院訪問歯科口腔ケア科
  • ⑩多摩クリニック
  • ⑪患者ロボット「シムロイド」
  • ⑫歯の再生の研究
  • ⑬歯の細胞バンク

創立者・中原市五郎先生像

  • 明治9年(1876)の麴町区富士見町の地図。
    赤線の囲みは、現在の千代田区の富士見キャンパス。左上は皇居の外濠の牛込橋、右下は内濠の田安門。

多歯多才な卒業生

大正昭和の前衛美術運動の旗手
洋画家である本学名誉学長

    • 中原 實

      Nakahara Minoru

      第4回卒[1893–1990]

    • 本学卒業後、ハーバード大学歯学部卒業。第一次世界大戦時のパリで義勇軍を志願し、仏軍歯科軍医となる。一方、西洋の絵画芸術に魅せられてデッサンに励む。藤田嗣治と意気投合、若きピカソとも肩を並べた。帰国後、前衛芸術運動に先駆、大正・昭和前期のアバンギャルド絵画の旗手と謳われる。日本歯科大学理事長・学長、日本歯科医師会会長、日本私立大学協会会長をつとめた。

    • ヴィーナスの誕生

九州歯科医専の中興の祖
九州歯科大学初代学長

    • 永松 勝海

      Nagamatsu Katsumi

      第7回卒[1894–1964]

  • 本学を卒業後、母校助手を経て、東京・小石川で開業。大正14年に九州歯科医学専門学校教授、昭和6年校長に就任した。福岡県立医学歯学専門学校長、福岡県立歯科医学専門学校長、新制大学制度のもと九州歯科大学の初代学長となる。2014年に創立100周年を迎えた九州歯科大学の校長・学長を35年間つとめ、中興の祖と讃えられる。

アントワープオリンピックに陸上選手として出場

    • 蓮見 三郎(宏)

      Hasumi Saburo

      第9回卒[1896–1977]

  • 蓮見三郎(後に宏と改名)は、1920年にベルギーで開催された第7回アントワープオリンピックに参加した。同年の五輪関東予選では、800メートルで日本新記録を樹立。アントワープは日本のオリンピック参加2回目で、選手団はわずか16人であった。陸上の800メートルと1500メートルに出場した。また、第10回ロサンゼルスオリンピックには、陸上競技役員として参加している。

北の考古学者、オホーツク文化調査
吉川英治文化賞を受賞

    • 馬場 脩

      Baba Osamu

      第10回卒[1895–1979]

  • 北海道函館市に生まれ、中学時代から考古学に親しむ。本学を卒業して東京の本郷で開業した。1930年からエトロフ島や北千島、カラフトなどの現地調査に専念した。その開拓した貴重な知見は、オホーツク文化の研究に大きな影響を与えた。吉川英治文化賞を受賞し、収集した「アイヌの生活用具コレクション」は、国の重要民俗文化財の指定を受けている。

沖縄漫談の“ブーテン先生”
沖縄のチャップリンと慕われる

    • 小那覇 舞天

      Onaha Buten

      第12回卒[1897–1969]

  • 本名・小那覇全孝は、本学在学中に東京の浅草で落語や軽演劇、オペラの小屋に入りびたる。卒業後、沖縄の嘉手納に帰郷して開業。終戦後、廃墟となった沖縄の地で、「命のお祝いをしましょう」と即興の唄と踊りを演じ、荒廃した人々の心を鼓舞した。“ブーテン”の愛称で親しまれ、今も、沖縄漫談の元祖として沖縄のチャップリンと慕われる。

昭和の新興俳句運動の旗手
現代もっとも人気のある俳人

    • 西東 三鬼

      Saito Sanki

      第14回卒[1900–1962]

  • 新興俳句の先駆者として知られる西東三鬼(本名・斎藤 敬直)。俳句は病院で歯科部長をつとめていた頃、患者に勧められ退屈しのぎに始めたという。昭和10年に無季定型の新興俳句を発表し、俳壇に鮮烈にデビューした。作家の松本清張は、フランスの詩人ボードレールの「悪の華」と比べ、「それよりも豊かで鋭敏な感覚」と評し、「現代俳句でもっとも天才的な地位の作家」と讃えた。

日本橋の“ガイコツ博士”
4000体の発掘頭蓋骨を調査

    • 河越 逸行

      Kawagoe Toshiyuki

      第14回卒[1903–1977]

  • 本学卒業後、東京の日本橋で開業するかたわら、東京慈恵会医科大学解剖学教室に在籍。縄文時代から江戸時代、昭和に至る約4000体の発掘された頭蓋骨を調査研究した。日本橋の“ガイコツ博士”と称され、著書「発掘された江戸時代」は、人類学研究の宝典となっている。発掘された江戸時代の木床義歯や骨壺などを収集し、民俗学研究にも寄与した。

神奈川歯科大学の創立者
理事長代行として心血を注ぐ

    • 木本 鎮雄

      Kimoto Shizuo

      元理事[1908–1972]

  • 1946年に本学に就職、7年後に法人理事に抜擢され、13年後には事務局長となる。1961年に日本女子衛生短大の理事長を兼ね、歯科大学の新設を起意。中原實学長の支援をえて、1964年に横須賀市に私立神奈川歯科大学を創立した。理事長代行として創設時代の大学運営に心血を注ぎ、2代目理事長に就任した1972年、在任3ヵ月余にして急逝。

台湾の中山医学大学を創立
アジア随一の医学大学に育てた

    • 周 汝川

      Ju-Chuan Chou

      第29回卒[1917–2011]

  • 本学を卒業後、故郷の台湾台中市にて開業。台湾における歯科医師養成を期し、1960年に台中市に牙医専科学校(後の中山医学大学)を創立した。歯学部、医学部など4学部、7つの研究所、4つの附属病院などを擁するアジア随一の医学系大学に発展させた。卒業生は、台湾の歯科医師の4割を占める。本学は、中山医学大学と1971年に最初の姉妹校協定を結んだ。創立より亡くなるまで、53年間理事長をつとめた。

わが国最初の人名研究家
“お名前博士”が大ブーム

    • 佐久間 英

      Sakuma Ei

      第30回卒[1913–1975]

  • 本学卒業後、歯科検診から姓名に興味を抱き、10万種といわれる人名の民族学的研究に没頭する。1964年「お名前拝見」を発表して注目され、「赤ちゃんの名づけ方」「日本人の姓」等を次々に出版し、御名前ブームを巻きおこす。一日50通余の赤ちゃん名づけ相談、日本橋三越本店での名前相談を担当する等、“お名前博士”と人気を博した。日本人苗字の多い順を調査した、佐久間ランキングは有名である。

東日本学園大学の創立者
道内医療過疎の解消に挑む

    • 渡邉 享

      Watanabe Ukuru

      第32回卒[1917–1985]

  • 本学卒業後、札幌市で開業。北海道内の医療過疎を憂いて、医療系大学の設置を起意して過疎の解消に挑む。1974年に私立東日本学園大学(のちに北海道医療大学と改称)を創立し、薬学部、歯学部を開設する。初代理事長として創設期の大学運営に粉骨砕身し、理事長在任10年にして病いに倒れた。現在、同大学は5学部を有する医療系大学。

学校法人青山学院理事長を16年間つとめる

    • 羽坂 勇司

      Hasaka Yuji

      第41回卒[1921–2020]

  • 本学卒業後、1975年横浜市に歯科医院を開業。青山学院中学部で学んだことが縁で、青山学院校友会評議員、理事、校友会副会長に就任する。その後、学校法人青山学院の理事、理事長代行を経て、1990年から2005年までの16年間、理事長として同学院の運営をリードした。青山学院は、東京都渋谷区に本部を置き、大学10学部等を有する総合学園。

2020年ノーベル平和賞候補
マリ国ボランティア活動32年

    • 村上 一枝

      Murakami Kazue

      第54回卒[1940–]

  • 本学卒業後、盛業の歯科医院を閉じて1989年、単身、西アフリカの最貧国マリ共和国(旧スーダン)に居住する。「カラ―西アフリカ農村自立協力会」を設立し、住民の自立を支援するボランティア活動に献身する。現在まで小学校21、中学校3、助産院・診療所15、識字教室70、女性センター19、マラリア・エイズ予防、腸内寄生虫駆除等、32年間にわたって地道にマリの“人造り国造り”に尽力している。2020年ノーベル平和賞候補にノミネートされる。

魅惑のアルゼンチンタンゴMANA
世界的なダンサー・演出家

    • 加藤 学

      Kato Manabu

      第89回卒[1972–]

  • 幼少よりクラシックバレエを踊っていたが、本学卒業後、勤務医のかたわら、アルゼンチンタンゴダンスに魅了される。アルゼンチンに留学し、国内外の大会に出場する。2013年に日本アジア選手権に優勝し、翌年には韓国アジア選手権優勝、マニラ世界選手権優勝、2015年には最難関の世界選手権セミファイナリストとなる。数々のショーやフェスティバルに出演、2016年には東京タンゴフェスティバルを主催した。